熊楠の記憶力

唐沢俊一の最新著書『博覧強記の仕事術』が厚顔無恥な書名(パクリ・劣化コピー+無知・無学・常識欠如でガセビアを濫造している男が博覧強記?)とお粗末な内容でウォッチャーを呆れさせている。


検証blog氏の記事はまだ本文の検証には入っておらず、巻末付録やまえがきに対する指摘・ツッコミなのだが、唐沢自らパクリ元のブログを「使えるWeb」の一つとして挙げている、書名に「博覧強記」を使いながらその語義ウンチクを間違えている等、痛撃が盛り沢山。本文検証以前に唐沢ボロボロ。詳しくは当該記事を読まれたし。


枝葉のこと、というよりほとんど唐沢とは関係のない話になってしまうが、検証blog氏の記事にちょっと気になる記述があったので書き留めておく。
まえがきで唐沢は南方熊楠の記憶力について述べ、熊楠が子供時代に『和漢三才図会』を丸暗記して家に帰り筆記し、5年かけて全巻(105巻)を写し取ったというエピソードを紹介している。それに対し検証blog氏は「南方熊楠顕彰館」公式サイトや紀田順一郎氏の文を引いて、

つまり、南方熊楠は『和漢三才図会』を友人から借りて筆写していたわけで、丸暗記して写したというのは熊楠の超人ぶりから話がオーバーになってしまったということなのだろう。

としている。
「唐沢といえばガセビア」という頭でうっかり読むと、この逸話誇大化(筆写→丸暗記して筆記)も唐沢の仕業のように誤解(誤読)してしまうブログ読者がいるかもしれない。これ、唐沢オリジナルではありません。元々熊楠自身が書いた自己紹介文の中に「暗記して帰り」云々とあったことから生まれた“伝説”らしい(エントリー末尾の引用を参照)。
今年3月の「美味しんぼ」でも使われていたので参考資料として引用しておく。

山岡士郎ら「究極のメニュー」スタッフが和歌山を訪れ、南方熊楠記念館にも足をのばす。)
p.70
上段(記念館の学芸員)「ではまず少年時代のことからご覧になって下さい。」(展示室を案内する学芸員
中段(同)「南方熊楠は1867年4月15日和歌山市に生まれ、」「子供の頃から本が好きで、友人の家にある本を一心に読んではそれを写しました。」(『少年読書の図』(清水崑南方熊楠記念館所蔵)の模写絵)
下段(同)「こちらの「和漢三才図会」「本草綱目」などは、現在で言えば百科辞典のようなものです。」(積み上げられた和書の山)

p.71
上段(学芸員)「それを10歳から15歳の時に、読んでは暗記して家に帰って写したんです。」(前掲二書のスキャン画像)
下段(飛沢記者)「ええ! 覚えて帰って家で写したの!
  (富井副部長)「文章だけじゃなくて図まで!」
  (難波記者)「どういう頭脳をしとったんじゃ!」

(「週刊BIG COMIC スピリッツ」、No.15 2009年 3月23日号。強調は引用者による。)

ガセビアを濫造」について

濫造というのはけして誇大表現ではない。
唐沢俊一ガセビア検証をしている「トンデモない一行知識の世界」は、(本以外の媒体を除く)「著書の間違い探し編」だけですでに780エントリーを超えている。(参照:トンデモない一行知識の世界 2 - 唐沢俊一のガセビアについて - 1000 のガセにのせたい

記憶力伝説について

これが正解!というものではないが、参考まで。

「(略)そして熊楠の書簡の中で最も世に知られたものは、幅 18cm、全長 7m 80cmの和紙に細かい字でびっしりと書かれた「履歴書」と呼ばれる日本郵船大阪支店副長矢吹義夫宛の手紙(平凡社南方熊楠全集第7巻」5〜65 ページ)です。これは、熊楠が植物研究所の設立を目指して寄付金を募っていた時期に、仲介者から矢吹義夫が簡単な履歴が知りたいと言っていると聞き、それに応えた書簡です。いくらかのリップサービスを含めて、おもしろおかしく自分の出生からの半生を書いています。例えば、「父は無学の人にて兄は至って学問を無用視する人なり。したがってあまり金を出しくれず。九つの時、相生町の佐武という産科医方に…略…天方金三郎とか金一郎とかいう小児あり。…略…学校果てるとその宅へ従いゆき、その宅の座敷の床の間に本箱あり、「和漢三才図会」を蔵む。それを一冊、二冊引き出して小生は読み、暗記して帰り、駿河半紙で綴じた帳に書きつけしなり。図も暗記なり。」と、少年期の自身と「和漢三才図会」の出会いについて書いています。ここから、「熊楠は、和漢三才図会全 105 巻を暗記して書き写した!」という熊楠の驚異の記憶力伝説が生まれました。実際には、しばらくは記憶して家に帰って書き留めていたが、その後に借り受けることができ、自宅で書き写していたようです。」
岩崎仁「南方熊楠――大正13年11月29日付 矢吹義夫宛書簡――」、「繊維と工業」Vol.64,No.5(2008) PDF